2020/11/04

靴ひもがほどけかかって


何度も靴ひもがほどけかかった。

走っているときだけじゃない。ニュースの報道で、夜寝る前に、ドアを開けるときに、行きかう人々の中で、スマートフォンの中で、色々な人の靴ひもがほどけかかっているのを見た。もしかしたら、もうほどけてしまっていたかもしれない。

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不思議と落ち着いていた。水が足を濡らすと、さっきまでの緊張は嘘みたいに思えた。しかし、緊張がなかったわけではない。とても不思議な感覚だったが、落ち着いていたとしか言えない。7,8分の試泳を終わらせて、陸に上がる。

勝負は最初の10分間、いや下手したら1分ほどだ。これからの約2時間のレースは最初の数分間で決まる。おかしなことだが、今までの数か月間がこのたったの二時間のレースのためであったのだと考えると、ますます奇妙に思えてくる。


3分前

スタートラインに浮かぶ。バトルを避けようと、人が少ない外側に位置取ることは事前に決めていたが、たまたま前が空いていたため、最前列に上がった。


30秒前


今までの数か月が終わる。ここは長い長い線路の終点みたいに、本当にあるのか分からない場所だと思っていた。


10秒前



時間がやけに遅く進む







そして11月1日12時40分、大変な時代で渡良瀬遊水地にホーンが響く。







激しく水しぶきがあがる。何も見えない。腕を回すしかない。幸いにもスタート直後はスムーズに泳げた。少し落ち着いて呼吸しヘッドアップする。水が激しくはじける音がする。呼吸毎に周りに人がいることを確認し、僕は安心した。

なんとか集団はある。あとは淡々と泳ぐだけだ。泳ぎ自体は悪くない。水が手のひらを流れるのが分かる。肩もよく回る。丁寧にストロークをし、控えめにキックを打つ。全身が水をかき分ける。水の音だけが聞こえる。





プールの飛び込み台の横に立ち、ふっと息をつく。やや体を前方に屈め、少し踏ん張り、勢いよく膝を伸ばし跳躍する。まるで吸い込まれるように、水の世界に飛び込む。水の中はなんだか好きだ。とても静かで、水中から見上げた世界は神秘的だ。

スイムが一番きつかった。水泳など、学校での経験しかない全くの素人だった一年生の僕は100m泳ぐのが精いっぱいだった。ただ水の中は好きだった。

インカレはとにかくスイムが心配だったため、特に力を入れたつもりだ。二部練をして、ある一週間は20km泳いだ。恐らく週間の平均は15㎞ほどであろう。2日泳がなかったことはない。とにかく泳いだ。それでもなかなか速くはならないから、不安であったが、自分には才能がないと思う。





だんだんとバトルが激しくなったが、落ち着くように努めた。周りには十分に人がいるから大丈夫だと言い聞かせる。どうやらレース前の心配は杞憂に終わったようだ。丁寧にヘッドアップをして、順調にブイが少しずつ大きく見えてきた。しかし、自分の予想より人がいたことに一抹の不安を覚えながら、やや余裕を持ってスイムアップする。




トランジでは、動線と動きを十分に把握・練習していたのでほとんどもたつくことはなかった。前には集団があり、パラパラと数人が続いた。


乗車すると、すでに少し先に集団が形成されつつあり、僕のすぐ後ろにも比較的多くの選手がいた。ここは前にジョイントしようとすると、東北の木元さんが後ろから僕を抜き去る。ここにつければ追いつけると思い、なんとかつく。その背中と練習中の先輩たちとの背中が自然と重なった。





随分先輩方の後ろ姿を見たものだ。大きくて強い背中だ。その背中を今まで追い続けてきた。

何度も千切れ、ハンガーノックになり、迷惑をかけた。それでも笑って許してくれた。本当に感謝という言葉しかない。だんだんとついていけるようになり、成長を感じて嬉しかった。もちろんキツイ。しかし、同時に楽しかった。たくさん学んだ。辛いことも先輩たちとだったから笑って乗り越えられた。



徐々に前との差は詰まってきているが、もう集団となっており、合流するのに時間がかかる。振り向いて後ろからも集団が来ていることを確認した。

ここで僕はペダリングを止め、離れる。落ち着いてシューズを履いた。序盤で消耗しすぎると取り返しのつかないことになるし、おそらく追いつけるだけの勢いはあると踏んだからだ。

後ろからの集団を待ち、第一コーナーを越えたあたりで吸収される。集団内には7,8人いた気がする。後ろで少し休憩しつつ、前との差もつきすぎないように注意を払っていた。

ローテーションも回っていたので、前とも詰まってはきているが、なかなか捉えられない。ここで単独ブリッジを試みる。集団のペースが少し落ちてきたところだった。ここで差をつけられるのはまずいと思い、飛び出す。ほどなくブリッジに成功した。

ジョイントした集団はそのままペースを落とすことなく回る。次々と集団を回収し、気が付くと30人以上の選手がいた。Bの選手のスイム力は割に固まっていたためだと思われるが、これは多すぎる。

落車の危険性が格段に高まり、緊張の糸がピンと張る。危ないと感じたので、できるだけ前方にいようと位置を上げたその時、隣の選手が知り合いの選手と声をかけた際に、バランスを崩した瞬間、バイクの制御を失い倒れた。ここで選手間の空気は一気に変わる。とにかく落車を回避するべく声を掛け合い、より集中した。

この集団内には知り合いがたくさんいたから興奮して踏みすぎてしまい、前にもたびたび出てしまったのは反省点ではあるが、後悔はしていない。

なにより楽しかった。欲を言えば、飛び出したいところだったが、自分の力で逃げる自信がなかったため、他の選手のアタックに反応しようと考えたのだが、結局そんなチャンスは来なかった。


その後は順調に周回数を消化したが、5周目当たりで僕は脚に嫌なこわばりを感じながらもサドルから降りた。



ランに移るものの、足が上手く運べない。これは何度も経験しているのだが、今回はひどい。足の筋肉だけじゃなく、差し込みがあり、腹斜筋にズキズキとした痛みが走る。いつものようにペースを落として対処するが、一向に回復しない。大腿四頭筋と三頭筋は今にでもつってしまいそうだ。加えて、空腹感もある。ハンガーノックかもしれない。脱水状態にも近い。心拍が上がらず、寒さを感じる。ここまで辛いランは滅多にない。歩いてしまいそうになる。


だが、声が聞こえる。応援してくれる人がいる。筑波からだけじゃなく、他大学の方からも声援を送られる。重くて重くてしかたがない脚がなぜか軽くなる。応援には間違いなく力があるのだと強く感じた。




とにかく、走って完走したかった。

今年は色々なことがあった。個人的にも文字通り、苦い涙をたくさんのんだ。おそらく、全世界でも同じだろう。

一人でいる時間が増えるにつれて、僕は自分自身に失望した。自己嫌悪、目標の喪失、将来への漠然とした不安、終わりが見えない生活。自分と向き合えば向き合うほど、僕は情けない人間だと思った。最低な人間だと思った。協調性のない自己中心的な人間だと自覚した。

関カレが近づくにつれて、怖くなった。自分の力が出せずに納得のいく結果じゃなかったらどうしようかと思った。レースはそんなものなのに、理由をつけて逃げようとした。そのせいで人に迷惑をかけてしまった。恐縮だが、この場を借りてお詫びしたい。わがままを言って申し訳ございませんでした。

それでも、本当にありがたいことにインカレを託され、出場させていただくことになった。誰よりも練習することを決意した。先輩たちは僕よりも忙しいなかで、闘うんだから、僕はもっともっと頑張ろうと思った。せめて練習だけはと。

だから9月は一日も休まず、練習し続けた。後半になるにつれて、体がボロボロになった。だけど辛かったのは心だ。どんなに体が重くても練習しなければならない強い義務感が腫瘍のように肥大した。

どんなに朝眠くても、練習に出かける。ほとんど同じ毎日。毎日一日中三種目練習して、合間に家とコンビニとスーパーを往復して、飯食って、寝るだけ。バイトも就活も辞めた。本当に練習だけの日々が続く。

そのうち眠れなくなった。体は疲れているのに、目を閉じると、様々な思いが頭の中を埋め尽くす。どうしようもない孤独感。夜が、朝が怖い。それでも、翌日は練習だからと常に寝不足の状態で練習していた。気が付くと睡眠時間と練習時間が逆転していたことも珍しくはなくなっていた。

パフォーマンスも上がりにくくなって、焦った。知らず知らずのうちに練習を休むのが怖くなっていた。周りに言われなければ、オーバートレーニング症候群だと自覚しなかったかもしれない。

体も心ももうボロボロだった。だけど、ここまで走り続けられたのは周りの人が支えてくれたからだと声を大にして言いたい。優しい言葉をかけてくれたから、一人じゃないんだって思えた。応援してくれる人が一人でもいるなら頑張ろうと思えた。

もう何が正しいことなのか、何が悪いことなのか分からなくなって、どうすればいいのか判断すらできなかったとき、僕に「がんばってね」って言ってくれたあなた、「できることをやればいいんだよ」と言ってくれたあなた、「応援してるよ」って言ってくれたあなた。無言のまま見守ってくれたあなた。多くの人に心が救われました。ありがとうございました。




だからこそ走って完走したかった。みんなの想いをゴールまで届けたかった。みんなも同じように辛かっただろうから。大学の代表としてではない。顔も知らない、話したこともない誰かために、想いを代表して走るんだ。僕が走ることで、感謝の気持ちを届けたい。何かをみんなに還元したかった。

ラン自体はとても情けないものだったと思う。もう体に力が入らなかった。まるで自分のものじゃないみたいに思えた。準備に反省点が残る。だけど何か感じて頂けたのなら今までが報われる。





そしてゴールは近づく。夢にまで見たFINISHのゲート。ひとまずの終着点。大きな声援の中を走り抜ける。紛れもなく幸せだ。



この時代にスタートラインに立てたことを光栄に思う。部内外問わず練習再開・大会開催にあたって尽力してくれた方には頭が上がらない。



そして、辛かった日々にも感謝している。辛い経験は人を強くすると信じてるから。





この日々を僕は忘れないだろう。

覚悟を持って、みんなで乗り越えたこの日々を僕は忘れない。

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何度も靴ひもがほどけかかった。

走っているときだけじゃない。ニュースの報道で、夜寝る前に、ドアを開けるときに、行きかう人々の中で、スマートフォンの中で、色々な人の靴ひもがほどけかかっているのを見た。もしかしたら、もうほどけてしまっていたかもしれない。



でも大丈夫。少し立ち止まって、しゃがめばいい


僕らはきっと結び方を知っているから


また何度でも結び直せるから

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               齋藤光

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